百姓一揆に耐えた長屋の柱に残る傷
長屋の物置近くの栗の木の柱には、農具による傷が残っています。これは全国的な規模で発生した「天明の大飢饉」が林田でも起こり、大官所の情け無用な対応ぶりに百姓の怒りが爆発した時のものです。
長屋の東側に比べ西側の柱の方が少なく、この柱を倒せば長屋全体が崩れ、主屋にも被害が生じるだろうと考えたのでしょう。この事件を治めるため、当時の七代藩主 建部政賢(たてべまさかた)は千両(現在の約一億円)を拠出し、打ち壊しを免れました。
長屋の物置近くの栗の木の柱には、農具による傷が残っています。これは全国的な規模で発生した「天明の大飢饉」が林田でも起こり、大官所の情け無用な対応ぶりに百姓の怒りが爆発した時のものです。
長屋の東側に比べ西側の柱の方が少なく、この柱を倒せば長屋全体が崩れ、主屋にも被害が生じるだろうと考えたのでしょう。この事件を治めるため、当時の七代藩主 建部政賢(たてべまさかた)は千両(現在の約一億円)を拠出し、打ち壊しを免れました。