三木家の成り立ち

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河野水軍の流れを汲む三木家

三木家の祖先は伊予(現在の愛媛県)の河野水軍であると言われています。
瀬戸内海の海上交通を取り仕切る村上水軍は、能島村上家・来島村上家・因島村上家から成り立っており、河野家は来島村上家の主家(しゅか=主君)でした。
この河野家は、源平の争乱期に源義経に従い、元寇の役(げんこうのえき=鎌倉時代中期の蒙古襲来)では、水軍を率いて活躍し、これらの武功が認められて室町幕府三代将軍足利義満より讃岐(現在の香川県)の三木郡を領地に与えられ、これを機に河野姓から三木姓に改姓しました。

秀吉の播磨攻め

三木氏は赤松氏を頼り、播磨に来て英賀城を築きました。
天正8年(1580)、羽柴秀吉が赤松氏を支援していた英賀城を攻め落とします。その時の最後の城主が三木通秋(みちあき)で、通秋の弟二人のうち、定通(さだみち)がこの林田に逃れてきて三木家の基を作りました。

江戸時代が終わるまで大庄屋を務めた三木家

三木家は窪山城(室町時代の後期、谷沢国氏がこの丘に築城し、窪山城と称していた。永正13(1516)に落城)があった小高い聖ヶ丘に家を建てましたが、元和(げんな)3年(1617)に建部政長が林田藩主として聖ヶ丘に陣屋を構えたので麓に家を移します。
しかし、牛や馬の糞で陣屋周辺の道を汚すことから寛永(かんえい)20年(1643)三代目定久(さだひさ)の時に現在の位置に移ったと言われています。
その時に三木家は建部氏から藩の税の取りまとめ役の大庄屋を命じられ、江戸時代が終わるまで大庄屋を務めました。